【家族やカップルで楽しめる島原城観光】【そこまで知られていない天草・島原の乱の悲劇】

皆さん、おはこんにちこんばんは!ノーブンです。
最近、季節の変わり目のせいなのか、歳のせいなのか、眠くてたまらない毎日を過ごしています。

前者であることを祈りつつ、今日は皆さんにおススメしたい観光スポットをご紹介します。
その観光スポットとは長崎は島原市にある島原城です。

島原城

この島原城は明治維新で廃城となり解体されたそうですが、島原市民の夢として御城復元への取り組みが長年続き、1964年に天守閣が復元されたそうです。

個人的な考えなんですけど、城とかお寺とか仏像とかって逸話を知らないと、せっかく観光に行っても何も面白くないと思うんですよね。

何も知らない状態だと、

「城だねー(´・ω・`)」
「大きいねー(*´ω`*)」
「・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「それにしても、城だねー( ゚Д゚)」
「なんと言っても大きいねー(*´▽`*)」

みたいな何の中身もない会話をして、終わりますよね笑

やはり、城と言うのはお殿様のお家であり、戦うための要塞でもありましたので、調べてみればドラマチックな逸話があったりするものです。

その中でも、この島原城には目を逸らしたくなるような、耳を塞ぎたくなるような悲劇のエピソードがありました。

目次

島原城の築城まで~筆舌に尽くしがたい100万の嘆き~

1618年、松倉重政は前の城主有馬氏の居城であった森岳城跡に新たな城の築城にとりかかりました。実に7年以上の歳月を費やして建築したこの近世城郭こそが、島原城でした。本丸・二の丸・三の丸が南北に連なる連郭式の豪壮堅固な城は4万石の城主という身分からしたら考えられないほど大規模なものだったそうです。

そのような城を造り上げるには当然のことですが、相当な労働力が必要となります。島原城の建設のために動員された人夫は何と延べ100万人とも言われています。

巨大なことや多くの人夫を使ったことでも有名なクフ王のギザのピラミッドでの労働者の人数は4,000人程度と言われていますから、島原城建築が、どれほど大規模な事業だったのかということがうかがえると思います。

後に宣教師たちから「悪魔」と呼ばれるようになるこの初代城主松倉重政は、農民たちに筆舌に尽くしがたい築城の苦役を7年間強いたうえでキリシタン宗徒を弾圧し続けました。更に、重正の後を継いだ養子松倉勝家はさらに厳しくキリシタン宗徒を弾圧し、相続く凶作の中領民に重税を課し続けるのです。

この間、圧政の水面下で島原半島のキリシタンの数は年々増え続けていきます。島原半島では悪魔のような統治者への憎しみの炎が怪しく燃え続けていました。

天草を駆け巡る救世主伝説

島原半島の領民が松倉氏の圧政に喘いでいたころ、領主・寺沢広高に治められていた天草の民も、島原の領民と同じように重い年貢とキリシタンの弾圧に苦しんでいました。ちょうどその頃「天変地異がおこり人が滅亡に瀕するとき、16歳の天童があらわれ、キリストの教えを信じるものを救うであろう」という宣教師が残した予言が天草半島を駆け巡りました。

関ヶ原の戦いで敗れるまで、天草を統治していたキリシタン大名、小西行長の元家臣の浪人たちが、その予言に呼応して結束します。

そして島原半島の帰農武士たちと共に島原・天草の間に浮かぶ湯島で一揆に向けて計画を練り始めるのです。

3万7千の民の怒り

憎しみと恨みの炎が燃え続ける島原・天草の地で、遂に領民たちの怒りが爆発します。
そのきっかけは統治者側の起こした残酷な事件でした。年貢を納められなかった一人の妊婦が、代官の指示で冬の冷たい川で籠に閉じ込められ、お腹の子供と共に殺されたのです。

怒りの炎は瞬く間に広がり、島原半島と天草の領民たちは次々と立ち上がり、参加者:3万7千人と記録される他には類を見ない大規模な一揆を起こします。総大将は、「天草四郎」。この16歳の若者こそが天草を駆け巡った救世主伝説の「天童」であると信じられ、ここにキリシタン対幕府軍の壮絶な戦いが始まったのでした。

一揆軍の猛攻に耐えきった島原城

士気も高く、帰農武士や浪人の指揮により統率が取れた一揆勢は島原では島原城、天草では富岡城を取り囲み、攻城戦を戦いましたが、結局両城ともに陥落することは出来ませんでした。

この後、天草の一揆勢は海を渡り、島原半島の一揆勢と合流します。その数が記録に残るおよそ3万7千人。この中には老人や女、子供も多く含まれていました。この3万7千人で原城に立て篭もり、幕府軍と籠城戦を行うことになりますが、最後は12万の幕府軍に取り囲まれた状態で3ヶ月にも及ぶ兵糧攻めをされたのち、幕府軍のたった1日の総攻撃により文字通り「全滅」します。3万7千人の全滅です。

天下分け目の関ヶ原の戦いの戦死者ですら、8,000人程度とされていますから、3万7千人の全滅と言うのが、いかにとんでもない規模なのかが分かると思います。

島原半島の統治者の松倉勝家が一揆が起きたことの責任を取らされ、斬首となったことが、一揆軍側からすれば唯一の救いでしょうか。いえ、救いはありませんね。

島原城を観光に行く際には、この城が陥落していれば歴史は違ったのだろうか、何て言うことを考えながら城を眺めると、風景もまた変わってくるかもしれません。

ちなみに、この話の流れと全く相反するかもしれませんが、POPに島原の乱が分かる2分半で分かる動画がありましたので共有します。
正直、キレッキレです。

島原城見学を終えたあとは姫松屋さんの具雑煮で腹ごしらえ!

島原城から徒歩5分以内に島原の乱とも関わりの深い名物:具雑煮を食べられるお店、姫松屋さんがあります。
以下、姫松屋さんのHPからの紹介分の引用です。

 「具雑煮」とは島原半島地域で正月などに食べる独特な雑煮のことです。この「具雑煮」の由来は、寛永14年(1637年)の島原の乱のとき、一揆軍の総大将であった天草四郎が3万7千の信徒達と共に原城に籠城した際、農民達にもちを兵糧として貯えさせ山や海からいろいろな材料を集めて雑煮を炊き,栄養をとりながら約3ヶ月も戦った時のものが始まりと言われています。これをもとに文化10年(1813年)、初代糀屋(こうじや)喜衛ェ門が味付に趣向をこらして生み出したのが「具雑煮」のはじまりと伝えられています。2代目姫松屋嘉久平により屋号を姫松屋として現在に至っています。「具雑煮」の温和な味は島原の郷土料理として有名です。

実際、私も具雑煮を食べてみましたが、ぽかぽかと温まる味でとっても美味しかったです!思っていたよりも色々な種類の具が入っていて、見た目以上にボリュームもあります。

具雑煮

デザートにはかんざらしを食べました。どこか懐かしい素朴な甘さです。

かんざらし

天気の良い日にはカップルやご家族で島原城観光にお出かけしてみてはいかがでしょうか。
最後までお付き合いありがとうございました!ノーブンでした。

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